2022年9月の北海道旅行 1期 高久 昇
2023 / 05 / 07 ( Sun ) 約1週間の予定で室蘭・虻田・札幌・小樽と生まれ故郷と仕事の歴史と墓参全て満足のいく旅行でした。
娘と孫労われながらの旅でした。山川草木は変わらねど、街は大きく変わったと感じました。 新しい道路が出来て街の雰囲気はもう昔ではなく、一寸戸惑いを感じます。例えば札幌から道南に抜ける230号線が往復4車線に改修している。昔弾丸道路と言った札幌室蘭の36号線も往復4車線で新しい道路でした。 出合った風景の一部を紹介します。わたしの甥が撮った写真、いずれも北海道 ![]() 室蘭にて ![]() 私の生まれ故郷の現在小樽の朝里が浜(石狩挽歌に歌われている) ![]() 石狩川河口の手つかずの自然。現役時代、石狩の小さな工場があって、その縁で船宿で鮭の網採りを石狩料理を食べながら見学した思い出があった ===== 高久 昇(たかく のぼる)氏について(事務局小笠原) 室蘭工業大学卒業後に雪印乳業株式会社(当時)に入社。 日本全国の雪印工場の製造に従事する。 高校・大学とバスケットボールの選手。 「背はたかく、名はのぼる」が自己紹介のキャッチフレーズ。 現在、ヴァイオリニストの劉薇さんの後援会会長 |
平成30年の室蘭栄25期1年1組クラス会
2022 / 05 / 13 ( Fri ) 平成30年の室蘭栄25期1年1組クラス会 髙橋 明也
![]() 平成30年に札幌でクラス会開催との連絡があり「行く!」と伝えた。 1年生の時のクラス会はちょっと珍しいかもしれない。 高校生になってすぐ出会った級友たちである。 このクラス会には「真柄正一先生を囲む会」という題名が付いていた。 担任の真柄先生による英語の授業は緊張の時間だった。 授業中に当てられて勉強していないことが判ると厳しい言葉で叱られた。 予習するのを忘れたときは先生と目が合わないように前に座っている人の背中に隠れるようにして時が過ぎるのを待ったものである。 (隣席の女子にお願いして予習ノートを見せてもらい教科書の行間に和訳を書き込んだりしたこともある) 平成30年10月20日クラス会当日14時過ぎ会場のホテルに着くと幹事から「一番乗り!」と言われた。 その後次々に参加者と真柄先生が到着。先生はとても優しくなっていて拍子抜けというか優しすぎて何故か寂しい気持ちになった。今では叱られたことが懐かしいのだ。 記念撮影後、クラス会は各自の近況報告、思い出話、校歌などと進み、続く2次会も終了して宿泊しない人たちは名残惜しくも次々に帰っていった。 宿泊者とまだ帰りたくない人が10人ほど私の部屋に集まった。さあ3次会だー! ホテルのシングルルームは狭い。そこに10人だからベッドの上も宴会場と化した。 途中で酒類・つまみが底をつきコンビニに買い足しに行ったりして酒宴は延々と続いた。 すごいパワーだった。還暦を過ぎた者達がこの時は高校1年生に若返っていた。 私は途中から記憶がないのだが後で聞くと宴は午前3時まで続いたようである。 朝起きて部屋の散らかりように驚いたが、もっと驚いたのは人間が床に転がっていたことだ。よく見ればそれは宿泊予定者ではないスガ君だった。3次会途中で帰るつもりが飲み過ぎて酔いつぶれたらしい。 何はともあれ楽しいクラス会だった。二日酔いも心地良かった。 思えば50歳を過ぎるまではクラス会や同窓会にはほとんど無縁だった。 それが東京白鳥会に誘われて懐かしい人たちに会える喜びに目覚めた。 現在コロナ禍で会えなくなっているのは寂しいが必ずまた会えると信じその日のためにも健康に気を付けようと思う。皆様お元気で! |
栄高校13期生・東京同期会開催
2012 / 07 / 13 ( Fri ) 第13期・東京同期会を開催 (H24年6月20日)・於;クルーズ・クルーズ新宿 「エ-ッ」「ヒェー」「アーいたいた」「ウワ-ッ変わったナー」等の歓喜とも感嘆ともとれる声が上がり会場は異様なムードを醸し出していた。出席者一人ひとりの自己紹介。 それもそのはず、スクリーンには卒業時の顔写真がアップで映し出されていた、第13期東京同期会のオープニングである。何しろ、卒業が昭和38年だから実に半世紀ぶりの再会者が何人もいたし、風貌(特に頭髪)だってかなり変化しているに決まっているから、このいきなりのイベントは全員を当時にタイムスリップさせ一気に空気は和んだものだ。それにしても、当時の写真と現在のギャップは実にリアルで吹き出してしまう。 今日の同期会は、もう卒業写真のように“気取りも、すましも、よそよそしさも”いらない、皆の笑顔にそう書いてある。川柳にある“同窓会 人生刻んだ 顔揃う”“よお!だけで 半世紀が 一瞬に”正に、その瞬間であった。 出席者は、ただただあの青春時代を思い起こし、懐かしさに浸り、今の幸せを確かめ、皆から元気を貰い、そしてまた明日から頑張ろう、と思って出席しているに違いない。 その第13期生は、9クラス、424名が卒業しており前々回(還暦時;地元開催)91名出席、前回(65歳時;地元開催)が62名、今回(68歳時;東京開催)51名(奥様を加えると55名)と開催場所の違いはあるにせよ、毎回出席者は減少してきているし、身近な仲間達で小グループ化してきているのは致し方ない。今回78名の欠席者からコメントを頂いたが、今だ働いており都合がつかない方もいたが、両親・配偶者の介護や本人の介護状態を含む健康上の理由による欠席がかなり多かった。年齢を考えると、これが現実なのだろうが、仲間達には、気持ちの上では“最後まで残るのは、俺だ、私だ”と、これからも逞しく活躍して欲しいと願っている。 さて、会の運営等だが、奇数月の最終火曜日を定例として集まっているイタンキ会(毎回13名~14名が出席している)面々が、それぞれ得意分野を受け持ってくれた。銀行員だった藤井君<3組>を受付(会費徴収、支払い)のチーフに。大企業のエンジニアでPC操作はお手のもの大島君<4組>には、あのスライドを。自称プロカメラマンの菅原君<3組>を記録係に。趣味の域を超える詩人中里君<1組>自作の詩の朗読。当時の応援団員3名(男沢君<6組>、及川君<4組>、前田君<2組>)による校歌、優勝歌の仕切り。それぞれのクラス別スピーチのチーフも“俺のクラスは俺に任せろ”という具合。当時生徒会長だった高嶋君<4組>による乾杯の音頭と竹村君<5組>による〆の音頭は、両名とも東京白鳥会の役員でもあり、ここは定位置。本来、口より足の方が達者なはずの山形君を何故か司会進行役に。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() こうしたフレームワーク固めに加え、今回のコンセプトを”全員参加型でワイワイ・ガヤガヤやろうや!”と決め、特にクラス別スピーチでは、遠方からの出席者(ex北九州市、三木市、名古屋市・・)や震災に負けてなるものか、と出席者した(ex仙台市、日立市の・・)方には必ず一言頂くことにしていたし、話題提供として、地元の学校統廃合の現実について、実際に蘭東中学のセレモニーで挨拶をしてきた佐藤仁人君<3組>に、また札幌地域でも同期会を定例開催しており、その中心人物の平井君<8組>に、それぞれショートスピーチをしてもらった。 ![]() ![]() ![]() 地元室蘭から、恩師、甚左こと保健体育の池田實先生(6組担任)が、ご夫妻での出席は一層会を盛り上げてくれた。赤点をつけられることなく、所要3時間もの会を盛り上げる事が出来たのは、イタンキ会の面々が、チームワークよろしく任に当たってくれた事がその要因であったと思っている。(ただイタンキ会の唯一の弱点は、マドンナが存在しない事である。)この会の余韻から、二次会、三次会と“夜の新宿裏通り”へと繰り出していったのは言うまでもない。 母なるイタンキ浜の懐で育ち、学び、そして目標こそ違え、誰もが一大決意と大いなる希望を胸に、あの“青函連絡船”に乗り込み“ドラの音“に胸を熱くした共通の仲間達である。会のフィナーレは、これまで頑張ってきた仲間達に次の詩を朗読したので、それを披露いしたい。 イタンキの浜を覚えていますか 学舎をそっと抜け出しグランドを横切ると、そこにはイタンキの浜があり、涯のない大海原が見えます。私の夢、君の夢、そしてあなたの夢が、光がきらきらと輝くイタンキの浜に埋もれています。君と語らいあった青い希望、あなたへの淡い恋、それを黒い砂の上に人差し指でなぞりながら書き、想いを砕け散る波音の中で叫んだのを覚えていますか。 イタンキの浜に栄高校の校歌が流れ、私達の夢を抱いた巣立ち。三月の風に学生服の裾さえ揺れる中で「さようなら」と、言った私達、手を上げた私に、首を少し斜めにして手を振った、セイラ-服の「さようなら」。 ・・・・・・・・・ 夢を背負い、希望を胸にいだいて駆け抜けた旅路、そして日々。 ・・・・・・・・・ イタンキの浜の黒砂アルバムを開いてみませんか。 イタンキの浜は私達の青春のページをゆっくりと開き、一人ひとりの顔を見比べながら 「頑張ったね」と、微笑んでいます。 あのイタンキの浜を覚えていますか。 思い出に溢れるイタンキの浜を。 【メンバー募集】 第13期東京同期会では、古希記念(2年後)に我故郷、北海道一周リレーラン&ウォークのメンバーを募集しています。 ・西回りコース(室蘭→函館→小樽→留萌→宗谷岬) ・・・幹事 高嶋 ・東周りコース(宗谷岬→網走→釧路→襟裳岬→苫小牧→室蘭) ・・幹事 山形 申し込み先 高嶋;takeo111@lily.ocn.ne.jp 山形;weed-ote@parkcity.ne.jp 記事:(第13期 山形修身) |
東京白鳥会鴨下会長について
2011 / 11 / 30 ( Wed ) 東京白鳥会会長 鴨下重彦さんについて
2011年11月 栄3期卒業生 関谷 章 鴨下さんがこの11月10日に亡くなられて居られたのを朝日新聞の記事で知った。 鴨下さんは室蘭栄高校の在京者の集まりである「東京白鳥会」の会長を、創立以来この5月まで努めて下さって居たが、前立腺癌が悪化したために辞退されていた。 9月の始め、鴨下さんからお手紙を戴いたが、この11月3日に神保町の学士会館で、鴨下さんが会長を務める「南原 繁研究会」の講演会で、鴨下さんが、「内村鑑三、南原 繁、及び、矢内原忠雄」と題した講演をなさることが知らされて居り、最後に、「この講演が私の最後の講演となるかも知れない」と書かれて居た。この「南原 繁研究会」には、何年か前にもお誘いを受けて居たが、その時には余り気が進まなかったので、丁重にお断りして居た。しかし、今回は事情が事情なので、鴨下さんの幼少の頃からお付き合いのあった近藤 武(元東大、東京女子大教授、数学)、岩佐善巳(元判事)、深瀬俊彦(元三井不動産)の諸君に声を掛け、私と私の家内もこの講演会に出席した。私自身は。内村鑑三と関係があると云うことで、若い頃に内村鑑三全集を購入して拾い読みした経験があると云うことから、個人的に興味を惹かれて出席したいと思ったのであった。 当日会場で驚いたのは、鴨下さんが車椅子に乗って居られたことだった。これまでに私がお目にかかった時は一度としてそんな様子を目にしたことはなかった。それに鴨下さんの講演の時にも、普通なら広い会場の講壇に上って講演を行う筈であるが、車椅子のままで1時間半もの間、講演を続けられた。講演の少し前に、鴨下さんが偶然(?)我々の座席のそばを通られたので、今日は我々のそばに居た近藤君の外にあと二人が来て居る筈だと云うことを申し上げて軽く握手したのが、我々と鴨下さんの最後の会話となってしまった。 当日の鴨下さんの講演は、どちらも内村鑑三の弟子であった南原 繁と矢内原忠雄の三者の相互交流を平易な語り口で示すものだった。その内容に興味をお持ちの方は、東大出版会から極く最近に出版された鴨下さんの編纂に依る「矢内原忠雄」と云う書物の「はしがき」と「1.生涯」の部分が鴨下さんが書かれた部分なので参照して戴きたい。 私もこの書物を会場で入手して読んで見て始めて鴨下さんについて今まで知らなかったことを朧気ながら理解した様に思う。私が知って居たのは、鴨下さんが北大の医学部から途中入学で東大の医学部に来られ、小児科の教授として医学部長を務められて居られたこと位だったが、私が駒場寮で遊んで居た頃に、鴨下さんは上京されて直ぐ、矢内原忠雄の聖書研究会に出席して居られたことが判った。そして、鴨下さんが東大に転校することよりは、この聖書研究会へ出席されることの方が優先して居られたのかも知れなかった。しかし、鴨下さんはもう亡くなられてしまったのでこれらの事柄を鴨下さんに直接確認することは出来なくなってしまったのが無性に悲しく思われる。 矢内原さんの岩波書店から出版されている「聖書講義」は、私が主として研究上の必要性から、キリスト教に興味を持ち、聖書を集中的に読んだ時期があったが、その時に参考書の一つとして購入して勉強した記憶があるが、信者になるには至らなかった。これも鴨下さんに確認したかったことの一つである。私が東大に入学した頃、確か矢内原さんは教養学部長だったと思うが、駒場寮がまだ健在で、寮生が町に出掛ける通り道に「矢内原門」と呼ばれるコンクリート製の立派な抜け道があったが、恐らく寮生が度々垣根を壊して通る頻度が余りに多いことから学部長の判断で出来たのでそう呼ばれて居たのであろう。この「矢内原門」については個人的には忘れることの出来ない挿話がある。それは、寮の部屋(一応社会思想研究会と名乗って居たが、勿論現在は消滅している)のコンバで怪我人が出て、彼を戸板に乗せて皆で運んで行ったが、「矢内原門」が狭いのと、運んでる人間が相当に酔っ払って居たため、そこで怪我人を落としてしまったことがある。幸いにして(?)落ちた怪我人も酔いで意識が無く、無事知り合いの外科医のところまで運んで行くことが出来たのだった。この話も鴨下さんには話して感想を伺いたいところであった。 また鴨下さんには、私が恥ずかしげも無く時々差し上げた駄文を丁寧に読んで戴いた。そして、私と家内とが琵琶湖を徒歩で周遊していることを話した時、鴨下さんはそれにとても興味を示され、ご自分が山好きであることから、三つの県にまたがる日本中の山を全部踏破されたことを話して戴いた。最近、この10月に私達は首尾良く(?)15年(実質10年程)の間に18回で琵琶湖周遊を終えたが、この報告を鴨下さんにして居なかったことも残念なことの一つである。ちなみに、前述の鴨下さんが最後に編纂された「矢内原忠雄」のカバーにはサザエさんの長谷川町子が描いた矢内原さんの姿が載せられている。 朝日新聞の記事に依れば、鴨下さんを送る会が12月4日午後2時から国際基督教大学の礼拝堂で計画されているとのことである。供物、供花は辞退されているとのことである。 |
久々のリレーエッセー:23期「するめ事件」
2011 / 11 / 03 ( Thu ) 久々のリレーエッセー/23期「するめ事件」 23期卒業生:金森 亨 今はもう廃線となってしまった胆振線壮瞥町の壮瞥中学校から、室蘭栄高校に進学したのは1970年だったと思います。当時、多くが近隣の高校へ進学するところ、どうしても栄高校に行きたくて親に申し出ました。理由を聞かれて、「大学に進学したいから。」と言ったのを覚えています。なんと、軽薄で思慮の浅い志であったことか。 通学は大変でした。なにしろ授業に間に合わせるためには、壮瞥駅朝6時半くらいの汽車に乗らなければなりませんでしたから。生徒会活動に打ち込んでいたので、弁当を2つ持っていった時期もあります。一つは2時間目と3時間目の休み時間に、残りの一つは授業が終わってからという具合でした。 3年間の思い出はたくさんありますが、1つだけ紹介しましょう。それは世に言う「するめ事件」です。 当時は冬の暖房を石炭ストーブにたよっていましたが、せっかくのストーブ、暖房以外にも何か有効な活用方法はないものかと考えていました。そこへ誰が持ってきたのか、するめが出てきたのです。これは好都合と、休み時間にするめを焼いてみんなでおやつにしました。ところが、するめは結構匂う。次の授業が始まり、数学の先生がガラっと戸を開けて入ってこられたところで、「ん?臭い!なんだ、これは!」ということになりました。その時はそんなに悪い事でもないとの甘い認識だった私達は悪びれもせず「するめの匂いだ。」と説明しましたが、その後が大変でした。授業を受ける態度が出来ていないとの理由で、数ヶ月の間授業してくれなかったのです。 私達は、空いてしまった数学の時間に、反省し、話し合い、和解方法を検討しました。あの時、先生にもするめを残しておけばよかった。結局、担任の先生に間に入ってもらって和解が成立しましたが、数学の遅れを取り戻すのに相当苦労しました。 ![]() ![]() (近影) (香港在住したアパート) そんな高校生活を終えて、慶応大学に進み、卒業後は都市銀行に入行しました。銀行では主に海外畑を歩み、香港在勤時には、日本人学校のPTA会長を務めたこともあります。学校の催しの度にあいさつに立って、生徒に「学ぶことの大切さと、学びへの取り組み姿勢」を説く私の脳裏に、いつも「するめ事件」がありました。 現在は、銀行を去り、小さな商社の経営の一端を担っていますが、今後はいままでの経験を活かし、日本経済の高度成長を縁の下で支えてきた、中小企業の経営を支援する活動に従事していきたいと考えています。 するめ事件は、懐かしいです。私たちが高校1年の時の話です。昭和45or46年の話です。 事務局:23期/小笠原 |