8期の塚田尚史さんが藍綬褒章を受章
2008 / 05 / 05 ( Mon ) 2008年4月29日に春の褒章発表がありました。我が東京白鳥会8期の塚田尚史さんが、長年の原子力発電所用材料の研究開発に関する功績により、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章いたしました。大変におめでとうございます。塚田さんは、室蘭ふるさと大使にも就任しています。今後の、益々のご活躍をお祈りいたします。
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植物を追いかけて
2008 / 05 / 01 ( Thu ) <植物を追いかけて> ![]() 4期生 能戸 忠夫 3月30日小笠原の父島・母島の植物観察会から帰京した。 東京から1000キロ離れた小笠原に行くには、現在船便しかなく片道25時間以上かかるから大変である。 しかし船が着岸した港の付近にはココヤシが植えられ、個人の庭先にブーゲンビレアが咲いているくらいで、落ち着いた良い町並みであった。 この交通の不便さを考えると、ホエールウオッチング等で訪れる人達くらいでは観光地として成り立たないであろう。私ども一行も20人を越えていたので泊る宿がなく分宿となってしまった。 小笠原には維管束植物が約300種自生していると言われるが、その約40%が固有種で木本植物に限ると約70%が固有種とのことである。しかしこの島では人間が放したヤギが野生化して植物を食い荒らすので、ムニンノボタン・ムニンツツジなどの貴重な固有種は金網で囲われて生き延びていた。 それにしても小笠原という地名は信州深志城主の小笠原貞頼氏の発見からと言われるが、欧米の捕鯨船が立ち寄り、ペリーが来航する以前にイギリス人とアメリカ人がハワイ人、ポリネシア人を伴って来島して生活していたと言う。江戸幕府は調査船を送り込んで調査をしていたようであるが、英米がこぞって領有権を主張したこの島々に対して、明治になって日本が領有権を勝ち得たのであるから、先人の努力には感心させられる。 昨年の同じ時期にハワイの植物観察に出かけ、海には一度も行かずに島々の山をジープを使って歩き回った。ハワイは勿論小笠原とは比較できないスケールの観光の島で、花の種類の多いことはよく知られている。しかし町で一年中見られる花々はほとんど外国から持ち込まれた植物である。州の花ハイビスカスも昔からの小さな花に外国種をかけあわせて大きくしたものだ。ハワイの昔からあった植物は1295種といわれ、その89%が固有種とのことであるが、そのうちすでに絶滅したものは108種、絶滅しそうなものは106種と大変な数になっている。これは移住してきた人々が海岸に近い平地を開拓し、そこへ熱帯の美しい花木や美味しい果物のなる木など外来の植物を植えたために、在来の植物は人里から山の上の方に追いやられ、更には大農園や牧場の開発によって絶滅に向かって行ったものと考えられている。小笠原もハワイも昔は草食動物がいなかったので、進化の過程で毒や刺のある植物ができなかった。そこにハワイではキャプテン・クックが次回寄航した時の食糧とするために、ヤギや豚を山に放したことが大きく自然環境の破壊に繋がっていると言われ、スケールは違っても小笠原と同じようなことが起きていたわけである。 私事になるが、自分が現役の時も仕事から離れたあともこのように趣味で植物を追いかけていられるのは、室蘭栄高校生物クラブで先生方から受けたご指導のお蔭だと今でも感謝している。 北辰中学校時代に教えていただいた水越克倶先生はその後栄高校に移られたのだが、89歳の現在もお元気でおられる。先日私の近著をお送りしたら大変喜んで早速お手紙を下さった。恩師と言うのはいつまでたっても有難いものである。故岡本幹二先生は、貴重な植物の書籍を沢山お持ちでいつも気持よく見せていただいたことを思い出す。昭和28年ころ昭和天皇の植物指導をしておられた東大教授の本田正次博士が岡本先生を訪ねられたことがあった。本田博士はそのあと登別温泉に行かれるとのことで、岡本先生から当時汽車通学生だった私に博士をお送りするように指示があり、車中博士と色々とお話出来て感激した記憶がある。その本田博士が56年前に設立された社団法人・日本植物友の会の4代目副会長を現在私が勤めているのも、何かの縁かも知れないと思うこの頃である。 能戸 忠夫氏略歴 室蘭栄高校4期生、在学中生徒会委員長兼生物クラブ長として活躍。 小樽商科大学卒業後中小企業を経営しつつ植物研究を続ける。 現在(社)日本植物友の会副会長兼事務局長。 本年4月に最新の著作「たべもの植物記」(山と渓谷社)が発売され、 朝日新聞の書評欄でも紹介された。 ![]() |
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