藤 直達先生を偲ぶ
2010 / 02 / 23 ( Tue )
<藤 直達先生を偲ぶ>   2010年1月23日    関谷 章

P1180001.jpg 写真1
養福寺墓所/東京                   生前の藤 直達先生(卒業生と)
 2009年12月1日に藤直達先生が亡くなられたことを知った。藤先生には私が1950年の4月に室蘭栄高校へ3期生として入学した年からお世話になったから、丁度60年間もの長い間に亘ってお付き合いがあったことになる。この1月23日に在京の有志の者が日暮里にある藤先生のお墓参りをすることになって居るが、私は所用があって一緒出来ないので、18日に家内と下見がてら、一足先に藤先生のお墓参りをして来た。お墓は養福寺と云う古いお寺で山門には重要文化財の立派な仁王像が立って居り、藤先生のお墓は先に奥さんも待って居られた筈であるが、大きな「これがお墓」と言える堂々たるお墓であった。藤先生が生前、東京に帰って来たいと言って居られたのを聞いたことがあるが、それは何故であるかがそのお墓を見た時に初めて理解することが出来た様な気がする。
 私が聞いた限りでは、藤先生は戦前に京都の大学を出られて、大手の商社に勤めて居られたために英語が堪能であったことから、戦後になって高校の英語の先生をされることになったと云うことであった。私との関係で言えば、1950年になってから、私の母が藤先生のお宅で英語の補修をされていると云うことを何処かで耳にして、そこへ参加する様に薦めて呉れたことから、私達1年2組の担任が英語の先生であったにも拘わらず、夜になると1年3組の担任である藤先生のお宅へ通うことになったと記憶している。
 どう云うことからそうなったかは今でははっきりしなくなっているが、その年の夏、太平洋戦争の間に私が疎開していた洞爺湖温泉の隣の家に日本軍が残して行った6-70人の人数を収容出来るテントがあると云う私からの情報に藤先生が耳を止められ、参加者を2、3組から募って、洞爺湖畔でキャンブをしようと云うことになって、藤先生が責任者となって実際にキャンブが行われたのであった。我々にとっては何しろ初めての経験であったが、或いは藤先生には既にキャンブを経験されたことがあったのかも知れない。これも今度の立派なお墓を見てから感じたことである。ところで、このキャンブは、その後大分年を重ねてから西湖畔で数多くのキャンブが行われる様になったが、その第一号であったと思う。藤先生の元気な奥さんと4人の子供達も参加して行われた食事作りやキャンプ・ファイヤーなども恐らく藤先生の知識によって我々が行うことが出来たのだった。
 このキャンプで私にとって特に忘れられないのは、ヒョンな事で碌に泳げもしないのに1里も離れている中島まで泳ぐことになり、途中で何度も「これで終わりか」と覚悟をしたことである。これは、中島へ行くと云うボートに乗せて貰えると思って行ったら、人間が多過ぎて乗れなかったためにそうなったのであった。後で聞くと近藤君などもそれと同じ苦労をしたと云うことである。私などは100メートル以上は長い距離を泳いだことはなかったのだから、無謀も良いところである。「ボートまで」が往復泳がなければならなかったのである。恐らく藤先生はこのことを知って居られなかったと思う。何れにしろ、私はこのキャンブで、その後生涯を通じての良き友を多数得ることになったのであった。 藤先生についてこの頃忘れられないのは、冬に藤先生のところの庭で私の父と藤先生が裸で相撲を取っていた記憶である。恐らくその頃、父と藤先生は栄高校のボート部で艇庫が欲しいと云うので、2人で寄付集めに熱心だったが、それが旨く成功した時のことだったと思う。今もこの艇庫が残って居るかどうかは知らないが、もし残って居れば、それは藤先生が寄付集めに奔走されたからに他ならない。
 私が栄高校を出て2年間浪人をして居た頃、時折、室蘭へ帰って居る時にばったり藤先生とお会いすることがあった。1年目に失敗した時、藤先生にお会いした時、「今度は大丈夫です」と照れ隠しを言ったら、「頑張りなさい」とだけ言って戴いた。藤先生のその言葉に励まされて、翌年首尾良く合格することが出来たのは我ながら上出来であったと考えて居る。
 それから、私が大学院を出て、慶應大学に就職する時に、「世の中には飛んでもない人間が居るものだから気を付けなさい」と藤先生に言われたことがある。それを聞いた時に「妙なことを言われる」と感じた。これは私がお人好しであることを見抜いて心配されたからかも知れないが、恐らく先生の体験の中にその様な人物が居たと云うことであったかも知れない。ずーっと後になって私も人並みにそう云う人物に出会った時に、藤先生が言って居られたことが初めて判った様な気がして居る。
 その後、我々も法事の折りにしか室蘭へ帰ることが無くなって居るが、その時に藤先生が今で言う認知症の症状の現れた奥さんを優しく労って居られるのをお見受けしたことがあった。そして、奥さんが亡くなられた後で、藤先生のところへ法事での引き出物や食事を持って伺うことがあったが、それをとても喜んで下さった。2年程前に、3大テノール歌手のDVDをテレビの画面で見れる様な器具を持参したが、これもとても喜んで戴いた様子であった。これが私達の藤先生のところへ伺った最後であった。この時、先生のところへは新しいDVDの器具を持参したが、後でそれでは良く見られない、と云うので、私のところにあった古い器具を送らなくてはならなくなったのも今考えるとご愛敬であった。
 藤先生の近くに住んで居られる3男の恭介さんも先生の最後に立ち会うことは出来なかったとのことであるが、藤先生は私の母親と同じ年齢であった
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