11期の思い出
2008 / 12 / 03 ( Wed ) 第11期生の思い出
第11期 小暮 安彦 我々、第11期生は昭和33年室蘭栄町の栄校校舎で入学式を迎えた。木造の校舎で廊下を歩く時にズック靴がキュ、キュと鳴ったり、ミシミシと鳴ったりと大正時代の建物であると容易に解った。その当時室蘭市の人口は16万人であった。 本輪西町から通学していた私は、栗林埠頭の横に位置していた室蘭通運(室蘭港を横断する渡し船で乗客30名程度の船)で対岸にある海岸町で下船して何度も通学した覚えがある。 正規のルートは、ディーゼル車が主であったが、国鉄本輪西駅から東室蘭に出て、室蘭行きに乗り換え終点の室蘭駅で下車し徒歩15分であった。列車に乗って時間が長く、乗り換えが大変だった。それに比べ、夏場の室蘭通船は快適で、所要時間25~30分程度であるが、港の風を肌で感じながら船から見る港の風景は、山の中腹から見る景色とは又、別 世界の風景を楽しむことができる。 入学時のオリエンテーションで最初に配布されたのが生徒手帳である。校則から校歌、応援歌まで、あの小さな手帳にビッシリと印刷されている。 次に校歌と応援歌は上級生が先輩の雰囲気をかもし出して体育会で幾度も練習する。繰り返し、繰り返し練習すると不思議と暗記されてくる。 校歌と応援歌を覚えることはその校風と組織の一員であることと共に不思議と共同体の認識を共有させられた。 一学年の違いに大きな差があることを認識したのもこの次期である。 第11期は8クラスであった。1クラス約40名前後の編成、我々にとって1年先輩、1年後輩との人間関係に至るには部活動か生徒会を通じての学校行事以外に知り合う機会は無いのである。時には同学年すら卒業までに会話することも無いまま卒業を迎える物も多い。 高校2年生になる時に栄校は栄町から東町に移転、東室蘭駅から徒歩10分、鉄筋コンクリート2階建校舎、体育館、当時としては大型グラウンドを備えた東町校舎である。 1年から3年まで自分達の手で持てる椅子類はトラックに分乗して日曜日に搬送した。移転は2日間で終了したが移転後の荷物の整理が随分と時間が掛かったことが記憶されている。新しい校舎の1年目は構内全体にコンクリートの臭いがなかなか取れなかった中での授業であった。新校舎はあの古いバンカラ的な風体や習慣が不釣合にさえ感じたことであった。 この時の通学手段本輪西から東町までバス通学、当時はまだ一般家庭に車が普及してない時代、通勤、通学で道南バスは何処も混雑していた。 修学旅行は8日間の行程で日光、東京、京都、奈良、大阪とまわり、帰りに再び東京に1泊して室蘭に帰った。乗り物は今とは異なり、列車、青函連絡船で、東京都内と奈良.京都及び大阪市内はヤサカ観光バス8台を連ねて走行した。1/4はバスの中で眠っていた光景が浮かび上がる。修学旅行に際しては、学校側から幾度となく指導通告があった。必ず持参..着用するもの、持参自由なもの、行動規制、特に学生手帳、帽子、学生服着用は義務づけられた。当時の修学旅行で判るとおり長めのトレンチコートと襟巻きが特徴で色は白か紺色が多かったように記憶している。(バーバーリーコートとよんでいた) 修学旅行の旅先ではいずこもその時代の思い出ある出来事があり、個々に保有している。 今でも、どう機会の集いがあると修学旅行のベールに包まれた部分が開帳される楽しみがある。修学旅行は同期生のみが唯一共有できる人生の中での共通行事であった。 昭和36年3月、第11期は卒業の時期を迎えるが卒業間際まで学校側と紛争した事件があり生徒会を中心として全校生徒集会を開いて協議を重ねること数回、学校側はPTA側との協議を重ね、生徒会の要求に承諾を出した。「男子学生の髪型許可問題」である。 時代変化、他校の実情、社会人としての予備軍「坊主頭」の規制は自由生活権を奪うものであるを表面に掲げ数回にわたる意見主張を重ね、終局的に男子長髪を容認約束を取り付けたのが昭和36年1月の出来事であった。その後、男子学生の髪型について校則の一部が修正されることとなった。 その時の生徒会は、生徒会長 蛭田邦昭、副会長 堤 修逸、境 富士子、厚生委員 東 義彦、浅川悦子、体育委員 藤田正樹、小室南枝、会計.書記 畠山邦子、萩沢敏彦、平松 紘、前野拓司の皆さんが全校生徒をリードした。 栄校の応援歌は数種類用意されていたが、高校生活3年間「室蘭栄校優勝会」を合唱したのは、応援歌練習の時だけで競技大会で優勝会を歌った経験は今でも記憶の中からは発生してこない。 ![]() 室蘭の冬は長い、あの鉛色の空、うなりを上げての海風に抵抗しながらも鞄をさげて通学した思い出、その当時はそれが当たり前と思っていた風景である。 43年前を振り返り、楽しい3年間であり、今でも第11期は輪番制で幹事を定め、東京と北海道で毎年同期会を開催し、互いの健康と思い出話、住みにくくなった現代社会の批判、高齢者対策と幅広い交流およびその会話を楽しんでいる。 大人予備軍としての多感であったあの頃はそれぞれにエネルギーを貯えていた。今、60歳代半ばである。同期会の集いでは唯一青春の仲間達との語らいで精神的にもその日が青春となす。 |
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